今年の夏休み―洗足池:繆崇群の足跡を尋ねて

今年の夏休み、などと銘打ちましたが、格段変わった、目覚ましいようなことは何一つありませんでした。第一に体調が芳しくない。一昨年の椎間板の大病以来、めっきり身体は弱り、気力や根気はすっかり失せてしまいましたし、昨年は頸椎の異常が発見され、今年は腰の不調は相変わらずですが、特に7月頃から左下肢の痺れが顕著で、時には左手も痺れます。昨年、頸椎の変形による神経圧迫で、右手指2本が痺れていましたが、これがようやく良くなったと思えば、今度は左側…万病群がり起こる、といった感じです(哀)。震災後、授業が始まり、その間は所謂研究というか、論文執筆は出来なかったので、7月下旬に休みになるや、書き物を開始。8月一杯まではかなり根を詰めました。所謂休みという感じは殆どなかったなぁ…9月中旬に恒例の三重大学集中講義に行った他、唯一の外出らしい外出としては、お盆の頃に(都内の道が空いているだろうと考え)大田区千束の洗足池に行ったことです。去年から『情影―陳範予詩文集』に継いで中国で出す予定の『繆崇群文集』を編集していますが、繆崇群は大正の末から昭和の初めにかけて、慶應の文学部に留学していた頃、大岡山に下宿していました。そして、洗足池で友人たちと語らった一夜のことをエッセイに書き留めております。そういう文人、文学史ゆかりの地を実際に訪れるというのは、結構好きな方なので、随分と暑い日でしたが田舎からノコノコ出て行った次第。もちろん池と周辺の古跡以外、繆崇群を感じさせる何かがあるわけでもなく、池のほとりに立つ図書館で、地元関係の資料も少しめくりましたが、特に収穫はありませんでした。ただ、池を一周してから、車で大岡山駅周辺、北千束の辺りを流していると、ここら辺がかなり起伏の多い、坂道だらけの地形であることがよく分かりました。繆崇群のエッセイにも、そういう昔の武蔵野の風景が美しく、懐かしく描かれるのですが、当時ならさもありなんと思わせる地形でした。こういう調査(?)は、そういったことが偲ばれるといった程度でいいのだと思います。

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写真は案外に多くなったので、シドニーの時と同様、スライドショーにします。中原街道の側から池の周囲を左回りに一周したのですが、写真は順番に中原街道洗足池前、東急電鉄洗足池駅、勝海舟旧別邸(洗足軒)址、御松庵「日蓮上人袈裟懸けの松」、池の写真を二枚挟んで、西郷南洲留魂祠、勝海舟夫妻墓所、池の写真を一枚挟み、弁天様、千束八幡の名馬「池月」の銅像、千束八幡、という順番です。最後の方のトンボももちろん池にいたものです。

上海巴金故居

2月中旬から5日間、慌しい日程でしたが、上海に行って来ました。科研の調査で、上海市作家協会にある文革時期の巴金批判関係資料を収集することが主たる目的でした。このテーマに興味を持っている院生を同道させたので、上海における巴金ゆかりの場所も案内してやりました(偉いセンセイだ。笑)。その内から、現在“巴金故居”と公にされている二箇所の写真を紹介しましょう。

先ずは1937年から戦後にかけて住んでいた霞飛坊(今は「淮海坊」)の故居です。3階建ての構造で、巴金(後には夫婦)は2、3階に住んでいたそうです。楊苡だったか、戦後にここが穆旦とか色々な人間の集う場所だったことを回想しています。次兄の李堯林が天津から上海に出て来た時も此処で同居したはずです。すると、今の長楽路/茂名南路のライシャムシアターも歩いて5分程度、足繁く通ったというのも理解出来ます。私のかつての記憶では、「淮海坊」という弄堂の標識が淮海路から見えた筈ですが、どうも見当たらなかった。最近、美臣大酒店というホテルがドカッと出来たせいで、この住宅群は巴黎春天というデパートと、ホテルに完全に隠されてしまったのですね。そのせいか、繁華街の真っただ中にも関わらず、案外に静かな感じです。

 

 

 

さて、次は巴金が亡くなるまで住んだ故居。といっても最晩年の数年間は華東医院に入院していたわけですが…。場所は武康路113号、淮海路の上海図書館を北に入る湖南路との交差点から二軒目です。1989年に私は此処を訪れて巴金に面会しました。今は誰も住んでいません。

 

 

この建物は2011年11月25日(巴金の誕生日)を期して、「巴金故居博物館」として一般公開される予定です。この写真を撮った翌日には、家具の選別、運び出しが行われたとのことです。

郭沫若記念館(千葉県市川市)

11月1日、上海の友人が帰国するのを成田まで送って、一緒に前泊してやりました。放っておいて、一人で帰しても一向に構わないのですが、ついでに何か美味いものでも食おうという魂胆(笑)。いやいや、そうではない、これぞ真っ当な目的というのは、つまり市川にある郭沫若故居(記念館)を参観すること。前からずっと来たいとは思っていましたが、なかなか腰が重く、今回成田まで車で来たついででもなければ、まだ先延ばしになっていたことでしょう。

郭沫若は20年代後半から10年間、市川で亡命生活を送りました。市川の中でも何か所か移り住んだようですが、その中で最も長く住んだ家屋が補修され、しかも本来の場所とは異なる所に移築されて、現在は市が管理する記念館として開放されているというわけ。地番としては市川市真間というのですが、つまり「真間の手児奈」の言い伝えのある所です。

成田から車で約1時間、カーナビの言うことを聞いていたら、どんどん細い道に入りこんでしまったので、結局JR市川駅と京成市川真間駅の間くらいのコインパーキングに車は置いて、以降は徒歩ということにしました。記念館にも駐車場はありません。

道案内の看板

簡単な地図は持参しましたが、駅からはこのような道案内の看板が整備されていて、迷うことはありません。ただし、結構な距離です。この日は前々日までの台風模様とは打って変わって、好天に恵まれ、暑いくらいでした。

駅からひたすら真っ直ぐに歩いてくると、須和田公園があります。ここには郭沫若の「別須和田」という長詩を刻んだ詩碑があります(写真は後に掲げます)。ここを左手に曲がり、切り通しを抜けて道なりに進むと、記念館に着きます。

これが入口です。敷地は結構広く、手前は花壇が設えてあります。

どうやらこの敷地全体は、正式には「郭沫若記念公園」というらしいですが、どうも名称が混乱しているようです(?)。

「公園」を含む故居=記念館の全景です。

で、更に故居側に接近すると、今度は「記念館」の看板が立っています。

この額は真跡とのこと。床の間の掛け軸はニセモノだそうです。

内部はこんな具合で、狭いながらも色々と展示があります。恐らく余り見学に訪れる人もないのでしょう、大変きれいに管理されています。ひとつ不思議に思ったのは、かつて見たTVドラマの「沫若与安娜」に描かれていた市川の住まいと、雰囲気、間取りなどが良く似ているということです。ちゃんと考証したのでしょうか?それとも、ここに長らくお住まいだった六男・志鴻さんあたりがアドバイスしたのでしょうか?

故居を出て、来た道を戻り、須和田公園に入り、詩碑を見ました。なかなか立派なものです。私が日本で見た郭沫若の詩碑として、福岡志賀島、岡山後楽園についで三番目になります。

左側が「別須和田」の詩(かつての地名は市川須和田でした)。

右側が郭沫若の胸像レリーフ。余り似ていないというか、少々情けないお顔のようですが…。

もう一か所、地図には「桜土手公園」という所に、何か郭沫若に関係したものがあると記されておりました。桜土手公園といっても、別に公園風ではなく、細い道沿いに桜が植えてあり、所々に市川とゆかりの文人に関する説明を記したややチャチな看板が立っているというだけのことでした。

看板の表は当該人物の経歴を記してありました。

裏は市川に関する本人の記述が抜粋、紹介されています。郭沫若については小峰王親訳『日本亡命記』からの引用でした。

というわけで、ようやく長年の(という程でもないか。笑)懸案を解決した次第。どうも市川のみならず、千葉という所について地理的な感覚が全く欠けていて、帰路はまだ時間も早いことだし、木更津から東京湾アクアラインに乗って帰ることにしたのですが、これが予想外の大回りになってしまいました。木更津なんていうのは、房総半島の取っ付きの辺にあって、市川の隣町くらいに思っていたのですが、全くポコペンなことでした。実は木更津、房総半島内側をほぼ半分くらい南下した辺りにあるので、成田から戻ってきた、その半分くらいをもう一度逆戻りして、更に館山方向へずっと車を走らせる破目になってしまいました。市川っていうのは、もうほとんど東京みたいな位置にあったんですね。