2011年新年早々の集中講義、伊勢、松阪、そして桑名

大分遅くなりましたが、今年2011年正月の旅行の際の写真です。旅行といっても、旅行のための旅行ではない、何と1月4日から丸3日間、三重大学人文学部に集中講義に参りまして、仕事を終えた後に松阪に一泊したという、いわば出先の小旅行(?)のようなものです。

下に並べたのは、一昨年から、津に滞在中に一回は寄ることにしている、津駅前の「伊勢門本店」のお料理です。2010年9月、前期の集中講義の際に試して効果的だったので、授業をしている間は飲酒を慎むことにしたのですが、これは講義を全て終えた晩に独り乾杯というわけで、少し奢った次第。

 

お通しとお造り。お酒は地元の「宮の雪」です。チラホラと雪の舞う、寒い日だったので、もちろん熱燗で。お造りには松阪牛も見えます(何か去年も同じような写真を載せた気がする…)。

 

左は「牡蠣の朴葉味噌焼き」、右は「クエの唐揚げ」です。そして今回のメインディッシュ(?)は、自分への御褒美、お年玉として伊勢海老です。

 

半身はお造り、残りの半身は焼き物、そしてお造りの殻は最後にアラ汁にして貰います。イヤァ、奢っただけのことはある、天下の珍味ですなぁ。

独り宴会の翌日は伊勢、松阪の観光です。近鉄で宇治山田駅に着きました。皇族も利用するとかで、異様に立派な、文化財的建造物でした。

 

先ずは徒歩で伊勢神宮の外宮のお参りに。お伊勢参りと言えば、先ずは内宮なのでしょうか、こちらはあまり人も多くありません。

 

で、こちらが内宮。やはり人が多い。そしてうるさい(…)。清浄な雰囲気、ましてや年の初めの初詣です、もう少し粛々と出来ないものでしょうか?

 

伊勢神宮は二度目ですが、ここはやはり清浄の地、という感じです。過剰な装飾を削ぎ落とした、簡素な美しさですね。右は五十鈴川です。この頃から雪が強く降ってきました。

 

これはお伊勢様の新名所「おかげ横丁」。右図は言わずと知れた「赤福」の本店です。まぁ巻き直しだか何だか、幾ら酷いインチキをしたってやはり人気の土産物です。みな行列をして買っていました。

 

こちらは「おかげ横丁」の半ば辺りで直角に交差している「おはらい横丁」。何のことか良く分かりませんが。訪れたのは7日、松の内ということもあって、まだまだお正月気分濃厚。演し物もありました。

「おはらい横丁」で昼食を済ませてから、更に南下して松阪に着きました。松阪と言えば本居宣長。というわけで駅前には、宣長さんのトレードマーク、巨大な鈴がありました。しかし、人影の少ない、死んだような町だなぁ。

 

松阪城址です。ここの石垣は何とか衆という専門技能集団が積んだもので、堅固で美しく、他に類を見ないとかいうことです。

 

これは城址内の敷地に移築された本居宣長旧居「鈴の屋」と、鈴コレクションの一つ。

お城を降りて来ると、目の前に「御城番長屋」が軒を連ねております。お城の守護に当たった家来が住んでいたもの。いったん事があればすぐに駆けつけたのでしょう。今でも数戸は当時の子孫がお住まいだそうです。

 

松阪の街並み。松阪商人発祥の地ということで、右は三井家です。これにて松阪観光はオシマイ。久し振りにガシガシと歩いて、すっかり疲れてしまいました。寒いので厚着であったこと、体重が重いこと、靴が革靴であったことなどが敗因(?)だったでしょうか。この晩は松阪に一泊。大風呂付きの宿だったので、ゆっくり風呂に浸かった次第。

翌1月8日は帰京の日ですが、桑名で途中下車して見物して来ました。昔から(多分子供の頃から)、例の安藤広重(最近は歌川広重、って呼ぶらしい)『東海道五十三次』の桑名の絵がお気に入りで、どういう所か一度見たかったのです。松阪ではゆっくり朝風呂などに浸かっていたので、少し出遅れて、お昼頃に桑名着。オヤ?桑名と言えばハマグリではないのかな?駅前の看板には「鋳物の町」とありますね(?)。

 

駅前からテクテクと1キロちょっと歩くと、本多忠勝の銅像が辺りを睥睨していて、右手が桑名城址です。今は九華公園ということで、右図の如く、池があるだけです。

 

公園を出て、本多さんを左手に、少し進むと、そこはもう揖斐川の堤防です。その先には、広重も描いた蟠龍櫓が復元されています。

 

ここは東海道旧道です。右図は本陣の跡。今も料理旅館のようです。何でも鏡花はここで『歌行燈』を書いたとか。

 

本陣から暫く川沿いに歩いて行くと、諸戸氏のお屋敷、庭園「六華苑」があります(今は市の管理)。洋館+数寄屋造り、芝生+日本庭園というワケのワカラン構造。洋館は最晩年のジョサイア・コンドルの設計だそうです。

というわけで、久し振りの一人旅。歴史のある町というのは、どことなく床しい感じのするもので、こういう所をブラブラするのは好きな方です。で、少しは気分転換になったようですが、旅行に最適の季節とは言い難く、やはり疲れました。そうそう、年末に新調したカメラ(ライカD-LUX5)の使い初めという感じもありましたが、使い方に習熟していないせいで、上の写真にも色調の妙なものが混じっていますね(笑)。次の出講は9月ですが、その時は何処に行こうかな。

年の瀬、雪の仙台と松島

年の瀬、もう押し詰まったクリスマス・イブの24日、復旦大学の袁進教授を案内して、冬の仙台、松島に2泊で行って参りました。“寒い時には寒い所へいくべし”とかワケの分からないことをしたり顔で言って、見事に震えて帰ってきました、というのも、仙台、松島、雪だった!

新幹線こまちに乗れば、東京~仙台は90分程度の距離、案外近いものです。11時近くの列車でしたが、ちょうどお昼時に到着。早速昼飯ですが、チュゴクジンが好きだろうが嫌いだろうがお構いなし、先ずは牛たんでしょう。駅ビル地下食堂街の「喜助」という店で牛たん定食を食べました。しかし、以前も思ったことですが、こんなもん、何が美味いんだろう?盛り付けも貧乏臭いし、値段だって別に安くない。全国謎の名物の上位にランクされること間違いなしです。

宿に荷物を置いて身軽になってから、最初の目的地、東北大学史料館へ。単なる物見遊山ではなくて、やはりそこは魯迅センセイゆかりの土地を訪れて、遠く前世紀初に思いを馳せようという、殊勝な心がけです(笑)。これは東北大学正門です。

 

これが東北大学史料館です。ここに着いたのが14時半過ぎだったでしょうか。この頃からハラハラと雪が舞い始めました。史料館の展示には魯迅に関連するコーナーも設けてあります。『魯迅と東北大学』というパンフレットがあって、中国語版もあるのですが、しかしこれは生協に行かねば買えません。史料館で売ればイイじゃないかと思います(不肖ポコペン、その手の業務に関わっているせいで、実は大学附設の史料館が直接金銭の授受を伴う行為を行えないとは承知しておりますが)。こういう所はやっぱり国立大学だなぁ。

  

史料館の左手に、仙台医専旧跡の碑があり、その右には魯迅の像。まぁ魯迅を顕彰するのもいいですが、基礎課程の半ばで退学した、医学生の卵とも呼べないような人間を、いくら後に偉くなったからといって、学校との関わりで称えるというのも、度を超せばどうかと思うなぁ。

 

大学のキャンパスを出て、歩いて数分の所に、魯迅が住んでいた下宿が今でも残っています。かなり老朽化していて、家屋も傾いていますが、まだ人がお住まいのようです。ちゃんと標識も立てられております。

これは阿部次郎記念館。角川源義が出資して、阿部に主宰させた「日本文化研究所」の建物を利用したもの。住まいは別だそうです。東北大学史料館と魯迅の旧居跡を見て、所期の目的は達したのですが、定禅寺通りの光のページェント点灯時刻まではまだ間があるので、魯迅旧居前に看板のあったここへ来たということ。しかし、結構距離があって、足が棒…靴を脱いで展示を見ようとして、両足とも攣ったにはビックリ。

 

で、光のページェントは17時半に点灯されました。元々このイベントは青葉通りで行われていたそうですが、いま青葉通りは地下鉄工事中なので、こちら定禅寺通りに移って来たとのこと。ちなみに、少し前、電飾が火災を起こしたそうで、暫く点灯は見合わせていた、それが昨日から復活ということで、これは実にタイミング良かった。しかし、雪のクリスマス・イブということで、まぁ人の多いこと!

 

仙台2日目。昨夜地下鉄に乗って帰って来たときにも、雪はかなり降っていたので、予想はされたことですが、朝起きてカーテンを開けて見れば、このような有様でビックリ!今日は定期観光バスに乗って松島へ行く予定ですが大丈夫かしらん?雪に弱い東京なら完全に交通麻痺でしょうが、そこは何と言っても北国、誰も慌てた様子を見せず、バスも定刻にやって参りました。

定期観光バスは9時過ぎに仙台駅前を出発。乗客は我ら2名を入れて、計15名でした。先ずは青葉城址へ。天守址から仙台市街を見下ろしても、こんな有様。本当は眼下に広瀬川が見えるはずです。

 

城址広場の伊達政宗の騎馬像も寒そうに雪を被っております。

さて、こういう観光バスの習いとして、とにかく時間設定は慌しい。青葉城址には40分くらいしかいなかったでしょう。次に向かう先は塩釜の遊覧船乗り場です。11時の船に間に合わせるために、市内見物は本当のおまけ程度。ここから遊覧船に乗って松島へ行きます。バスは先回りして、客が松島観光を終えるのを待つということ。

 

船が動き出すと、ウミネコが追ってきます。これに与える餌は「かっぱえびせん」だそうです。

 

大小様々の島を眺めながら約50分で松島に着きました。しかし、船上は寒かった…。

 

先ずは昼飯。瑞巌寺の山門を入り(山門というけれど、ここは門から本堂まで平坦で見渡せます)、杉木立を抜けて、境内の一角にある食事処で貧しい宛がい飯。10分もかからずに食い終わってしまいました(…)。何といっても、お膳に見える動物性蛋白質は笹かまぼこだけなのですから、どういう食事か推して知るべしです(…)。

時間の余った向きは隣のお庭など御覧になっては如何と、バスガイドが勧めるので、別料金を払って円通院という、4代目だかの殿様の廟所を見物。雪のお庭はなかなか風情がありました。

 

で、瑞巌寺の本体ということになりますと、実は国宝の本堂は、建立以来初の大改修を行っていまして、それが完成して、再公開されるのは、何でも7年か8年も先とのこと。その間、お位牌やら何やらは、隣の庫裡に移されて参観させています。しかし、冬のお寺見物というのは足裏から凍えてきて、実にツライです。

 

瑞巌寺を出て、今度は向かいの五大堂へ。これは遠くから眺めるものであって、中に入って面白い見ものでもありません。

 

で、最後の参観先は「伊達政宗歴史館」という怪しげな施設。フン、要するに蝋人形館ですね。ここは2階建てで、1階は仙台、宮城に限らず、東北地方全域出身の偉人、有名人の人形が一堂に会しております。上図左は小林多喜二、右は…誰でしょう、この爺さん?実は秋田雨雀です。へ~という感じ。

 

二階の方もザッと通り過ぎてきました。かつて大河ドラマで伊達政宗をやったらしいですが、見ていません。その生涯も殆ど存じ上げませんので、ハァハァって感じ(萌えではない…笑)。

 

で、この子供騙しみたいな人形の館はすぐに出て、向かいのレストランで焼き牡蠣を4つ、熱燗を2本頂きました。美味かったです。上図右は、当日宿に戻って食堂で食った牛たん焼き。固かったな…。

翌日は雪も止み、青空が広がりました。仙台市博物館を参観に行きました。

 

館内を参観する前に、建物の左横にある魯迅の記念碑を見に行きました。ここに最後に来たのは(多分2度来ています)もう大分前のことで、図右のような、紹興市から寄贈された胸像など増えておりました。

博物館の展示から。日本の博物館といえば、やっぱ刀剣に甲冑かなぁ。刀剣の展示は殆どありませんでした。

 

博物館を出て、広瀬川に架かる大橋から下を覗き込むと、ヴ~、凍えそうな風景です。と、市街寄りの橋の袂を降りると、図右のような記念碑がありました。何でも、切支丹禁教のために殉教したポルトガルの神父さんらの碑だそうで、この大橋の辺りで水責めで処刑されたのだそうです。真冬のことだったら、心臓なぞきっとすぐに停止していたでしょう。それほど寒々しい場所です。

 

これは土井晩翠晩年の居所、「晩翠草堂」。図右の「天地有情」は、明治新体詩史に名高い晩翠の第一詩集の名前。

駅まで戻る道すがら最後に見たのが「青柳文庫」の碑。江戸末期、民間の篤志家が公開した、民間初の図書館だそうです。世の中には偉い人がいるものです。

という感じで、2泊3日の仙台、松島旅行も終わり。第一に寒かった。第二に牡蠣を結構食った。言うなればそれだけですが、まぁ特に面倒なこともなく順調に旅程をこなし、年の瀬もすっかり押し詰まった12月26日に無事東京に戻って参りました。袁進氏は、まぁ向こうも気を遣っていたのでしょうが、旅の連れとして特に問題なく、食い物も皆美味い美味いと召し上がっておられ、これは何よりでした。しかし、本当に面白かったのかなぁ?

巴金逝去五周年記念「2010巴金論壇」「“巴金・上海”展覧」など

10月11日から17日まで上海に行ってきました。15日に世博会に行ったことは既にレポートした通りですが、授業期間中、しかも授業再開直後に教授会までお休みして博覧会見物ということはない、ちゃんとした御用もあって、それは「2010巴金論壇」というのに出て、ちょっとした報告をすること、それから「“巴金・上海”」という展覧を見てくることが主たる内容です(他にも色々あったのですが、アリバイを主張するわけではないので、それは省略)。11日出発に際しては、予約していた新宿発の成田エクスプレスが、南浦和の人身事故の影響で運休になってしまい、少し慌てました。いつものように、昼飯で一杯、イイ気分になって、出国後ももう一杯なんて余裕はちょっとなかったなぁ(実は学生も一緒だったので、あまりみっともないことも出来ず…)。

これは昼飯の「酒肴セット」というもの。前にも載せたことあったかな(?)。別に美味くもありません。これにビールもしくはお銚子がついて、1500円くらいしたかな。

上海到着後、普陀区が用意した宿のロビーにあった案内。ウ~ム、このレベルのホテルに泊まるのは、随分と久し振りのような気がします。ロケーションも凄い場末の感じで、到着の晩の食事が終わり、皆で河岸を替えて、どこぞで茶でも啜りながらお喋りしようといっても、15分以上歩いて、大渡河路の区人民政府近くまで行かねば「上島珈琲」すらない有様。フ~ム、上海にもまだこういう所があるのですねぇ。

今回はipodを持参して携帯スピーカーに接続。上海の場末の寂しい宿に響くIvan Linsです。

これが「2010巴金論壇」その他の会場、普陀区図書館1階ロビーの様子。今年の初めに2億元を投じて開館したばかりの、新しい建物です。色々と意欲的にやっていこうという、それに作家協会が一枚噛んだという、まぁそんな具合らしいです。

図書館2階(?)のスペースで、一連の活動開始のオープニングセレモニーが開かれました。

セレモニーの最初は区の小学生が4名登場して、巴金にオマージュをささげます。ン?今日は火曜日ですけど、学校は?

開幕式が終わり、10階に移ると、そこでは手稿(陸正偉さん曰く、みんなコピー)と、各種版本の展示。ここはそもそも、作家のマニュスクリプトを収集して展示するスペースらしいです。

展示風景はこんな感じ。会場が新しいので、それなりに立派な感じはします。

特に珍しいものを見たという感じはしませんでしたが、それでも幾つかの本は初めて見ました。

こういう感覚はいまだによく分からないですが、巴金の作品名を篆刻作品にした人がいて、それも展示されていました。作者は大連の人で、多分周立民くんのお知り合いでしょう。

『第四病室』の原稿(部分)。巴金自身は毛筆で殴り書いたようなことを回想していますが、案外きれいに書かれていると思いました。

こんな感じで、こじんまりとしたミニシンポ。10時半から始まって、休憩を挟み、17時過ぎには終わりました。

宛がわれた飯ばかりというのも詰まらないもの。これは学生と食った「美林閣」(上海書城福州路店の裏)の昼飯。「糟」5種盛り合わせなんて、ピエールが悔しがるであろう好物。昼から少しお酒を過ごしたような感じでしたが、食後はキッチリ宿に戻って、本の校正をやりました。

10月16日の土曜日には、徐匯区の青少年活動中心という所(昔の名称は少年宮ですね)で、「巴金・上海」という展覧が始まりました。この日は好天に恵まれました。

開幕式のテープカット。右2は王安憶さん、右3は巴金の弟・李済生老人。李老は昨秋には随分衰えたような感じで心配でしたが、今回はお元気に見えて一安心。もう93歳だそうで。

展示の始まりはこんな感じから。実際見るまで分からなかったことですが、要するに上海市作家協会としての巴金逝去5周年記念行事のメインがこの展覧で、やはり気合いの入れ方が違いました。李小林さん(巴金長女)も、こういう場所には余りお出ましにならない方ですが、この時はお出でになって、お昼の食事も一緒でした。

“文化大革命”時期の迫害の資料。こういうものはやはり本場ならではの展示品です。

「人民作家」っていうのは、ちゃんとこういう風に「授与」される称号なんですね。証書を見て、初めて理解しました。

展示会場の壁面。各種著作の表紙です。

会場には書斎の一角も再現されています。

このような感じの展覧でした。当日は早く会場に到着してしまったので、無人の会場をゆっくり見ることができました。

暫くすると、隣のホールで、多分中学生くらいではないかな、地元の子供を集めて「走近巴金文化講座」という講演会が開かれました。壇上にいるのは左から陳思和、宗福先、李輝、陳喜儒の各氏。1時間ちょっとで終わりました。

全ての御用を終えて、買い物に出た南京路歩行街で、ビビアン嬢とツーショットです(笑)。しかし、この日の南京路は想像を絶する人の数。これまで数え切れぬほど来ていますが、初めて見たといってもイイほどの混雑ぶりで、すっかりイヤになりました(…)。

今回の上海行、出掛ける前は比較的ゆったりした日程のように思いましたが、何やかんやで慌しくなってしまいました。どうしてでしょう?律儀にこっちの友達にも、あっちの友達にもなどと声をかけていると、どうもこういうことになるらしい。どうも出版関係で用事が幾らか残ってしまったので、今年中に行けたらもう一度行きたいものですが、さて時間が取れるかどうか…。

楊梅焼酒

4年前に上海で呑んでから、何時の日か自分でも作ってみたいと思っていた「楊梅焼酒」。今は便利な世の中になったもので、インターネットで宮崎県産の楊梅(ヤマモモ)を買うことが出来ました(500グラムで980円)。
この果実酒の美味しさを教えてくれた上海のゲロ教授に言わせると、これは高級な酒で漬けるもんじゃない、一瓶10元程度の白酒で十分ということですが、日本ではそういうものの方が却って買えないものです。手元には何時の間にか茅台酒が4本、五糧液が2本集まっていたので、その半分を「実験」に使うことにしました。これ以上のものはないというくらい、最高級の楊梅焼酒が出来るのではないでしょうか。
これも指南役のコメントですが、一般的には2カ月後以降からよく漬かって(ヤマモモのエキスが十分に浸出するということか)呑み頃といわれるが、実は漬けてから2週間後くらいが、ヤマモモの清々しい香りが上品に移って、ちょうど良い頃合だと。そして、そこでいったん呑み終えたら、残ったヤマモモにもう一回酒を注いで、今度は長期熟成用にするのだと。フ~ン、いずれにしても楽しみです。このお酒は見た目は宝石のように美しいし、キリッと冷やして呑むと、これがまた堪らないんですね~。で、呑み過ぎると郁達夫の小説、そのタイトルもズバリ「楊梅焼酒」の登場人物のように、酔後乱に及ぶことになると(笑)。味見したらまた報告することにしましょう。

夏休み(おしまい~三重県津市)

あぁ、もう夏休みもおしまいです。という初秋の4日間ほど、4~5年振りに三重大学に集中講義に行って参りました。
今回は腰の具合に不安が残るので、ペケポンがひっついてきた…とはいえ、日中こちらが働いている間は、今日はお伊勢参り、明日は伊賀の忍者屋敷と、フラフラ遊んでいるということ(…)。独りだと晩飯が哀しいものですが、二人ということで、そこはまぁ役に立ったかな。毎晩宴会みたいな感じで、当地の豊富な地酒を端から呑んでいました。
何かペケポンにイイ思いをさせにいったような気がしないでもない(…)。明るい内はコッチは講義をしているので、観光地とか名所とかの写真があるはずもなし、となれば残った写真は晩に食った料理のものばかり(笑)。これだけ見て、何だコイツ、飯食いに行ったのかなどとゆめゆめ思われませんよう。
そんなわけで、夏休み明けの社会復帰というか、つまり授業再開の予行演習みたいな集中講義も終えて、気分は段々仕事モードに切り換わりつつある、そんな季節になったということですな。この休み中にもう少し腰が回復するかと思ったけれど、まぁ焦っても仕方ないことです。

パスタな日々

朝昼兼用の食事として、よくパスタを食べます。写真アルバムにあるような、焼きそばだか焼きうどんだか分からないような代物ですが。料理はスキで、何でも自分で作りますが(皿洗いはしない)、最近は仕事も忙しく、なかなか思うに任せない。でも、このパスタの味つけは自分でやらねば気が済みません。そういえば村上春樹の短編だかエッセイだかに“この世でイチバン悲惨なパスタ”みたいな言い方がありましたね。冷蔵庫の余った材料をブチ込んだパスタのことだったと記憶します。写真にあるのは、そこまで悲惨ではない。パスタはディジェコのスパゲッティ、オリーブオイルは普及品とはいえベリオのエクストラ・バージンと決めてますし、やむなく出来合いのレトルトソースを使う際も、必ずバジルペーストとかアンチョビーペーストを加え、チーズもふんだんに入れます。それなりに気合入れてるのに、何か見た目が良くないのはナゼだろう?きっとカメラと撮影の腕のせいだな、ウン、そうだ。

Junk Lunch~part4

しつこいようですが、昼飯食うたびに、写真に収めねば気が済まなくなってきました。夏休みは旅行の写真もアップする予定なので、休みに入る前までのジャンク・ランチ(中にはそう呼べないものもありますが)の写真を整理しました。こういう昼飯も、すっかり飽きてしまいました。涼しくなったら、美味い鰻や鍋焼きがイイな。 

Junk Lunch~part3

昼飯にどんなツマランもんを食ったかという、哀れにも意味のない記録を続けておりますが、実はコンビニで買うサンドウィッチ、おにぎり、弁当、それにカップ麺がほとんど。厳密にはジャンクフードとは呼べないかもしれません。しかも、コンビニも最近では添加物、保存料なしとか、素材の安全にこだわりますなどと宣伝しているから、ジャンクフード扱いには文句があるかもしれません。しかし、食った後には、やはり何かヘンなもので適当に腹を膨らせただけ、という印象を免れません。あぁ、それから、弁当類は妙に味が濃かったり、油っぽかったりします。化学調味料の使用も含め、そういった世の中でこれ以上の罪悪はないみたいに糾弾されている傾向を、一概には排斥しないジャンク+メタボな私ですが、それでも「豚カルビねぎ塩焼き弁当」にはすっかり閉口しました